そこに、死に瀕した患者と健康人の違いがある。
機能的にいえば全肝臓の二〇パーセントが残れば生存が維持できるとされてきた。
肝癌の切除で、ときにぎりぎりまで肝臓が切除されるのはこの経験則があるからである。
移植についていえば、レシピエントにとって四〇パーセントの肝臓は不足であっても、健康人のドナーにとっては十分であるに違いないというのがTたちの判断であった。
K大チームの転換を冒険と見る見方もできよう。
けれども、Tの実感では「われわれも慎重すぎるほど慎重たった」という。
プロジェクトがはじまって八年、症例数三百数十例を経てはじめて踏み切った転換である。
どのような手術も、結果、失敗すればむなしい。
生体肝移植の場合、加えて、必死の思いでドナーとなった人の傷だけが残る。
二重のむなしさが残る。
それだけの犠牲を強いて行なう手術である以上、なんとしても成功への可能性を高めたいとTは思ったのだ。
批判は承知のことだった。
右葉切除によるドナーヘの影響は、左葉に比べ、しばらくビリルビン値の上昇度が高いこと、胆汁漏れの頻度が多いこと以外、これという大きな問題は起きていない。
これらの問題に対しては、切除後の。
死腔”をはやく縮小させる措置、胆管断端部へ大網(胃から腸にかけてフプロン”のごとく垂れ下がった腹膜)をかぶせるなどの工夫で改善されている。
やがて、東大チームを含め、国内・海外のチームも右葉切除による肝移植をはじめていった。
他の臨床分野と同じく、実績が臨床領域を拡天していったのである。
一度、右葉切除による肝移植の手術を見学したことがある。
二〇〇一年九月、K大の症例数でいうと七百三十八例目、三十代の夫婦間の移植であった。
レシピエントは原発性胆汁性肝硬変に冒された妻で、ドナーはその夫であった。
手術模様は、素人が見ている限り、摘出、植え込みとも左葉のさいとまったく変わらないが、摘出された右葉は赤黒く染まったメロンパンのごとくもあり、重量感は左葉とは段違いである。
秤に乗せられた重量は八百九十グラムとあった。
この日もエジプトーカイロ大学医学部の外科医二人と看護婦の見学者の姿があったが、見学の主目的は右葉の摘出とのことだった。
海外からの注目も、従来の肝切除および肝動脈の顕微鏡手術から右葉切除へと移り変わっている。
およそ二か月の入院生活を経て、Sは、故郷、境港の自宅に帰った。
入院生活で足腰はすっかり弱っていて、自宅二階の上り降りに手摺を借りなければならなかった。
息切れがし、疲れやすい。
元の健康体に戻ったと思えたのは、帰郷して半年後であった。
父と母の風呂上がり、腹部に残るL字型の傷跡が目に入ったりする。
ああ、大変な犠牲を強いたのだと思いつつ、そのたびに元気になったことへのありがたみを噛み締めるのだった。
米子にある鳥取大学医学部付属病院を定期的な通院先としたが、移植の名残は、朝晩に飲む免疫抑制剤FK506ニミリグラムのみとなっていった。
健康に自信が得られてから、Sは米子にある職業訓練校に通いはじめ、パソコンの取得コースも選択した。
手に技能をつけて、境港か米子か、地元で事務職の仕事を見つけられたらと思ってである。
それまで「人生をそんなにむつかしく考えない方」であったが、再び命を授けられてはじまった人生、それまでとはなにか違うものが自身のなかにあった。
具体的なものは見えていなかったが、なんとなく過ぎていく毎日ではなく、一日一日が大切であると実感できるような日−。
そんな手応えが得られる仕事にかかわりたい思いがしていた。
鳥取大を通院先としつつ、数か月に一度、K大での定期診断を受けていた。
そのさいの診断で、門1の吻合部が狭くなっていることがわかり、バルーンを使って拡げる手術を受けることになった。
これは術後ときに見られる症状のひとつで、とくに深刻なものではない。
付き添いに母が来ており、無事手術を終え、二人で退院の荷物づくりをしていたときだった。
Tがふらっと顔を見せた。
さい。
で、なにかこれからの計画はあるんですか?」世間話をするような口調でTはいった。
Sはずっと思っていたことを口にした。
せっかく元気になったのだからなにかやりがいのある仕事にたずさわってみたいと。
そんな気持でパソコン教室にも通ったことを口にした。
パソコンという言葉を耳にして、Tに閃くものがあった。
移植情報室は多忙を極めている。
データ整理に力を貸してもらったらJさんも助かるだろう、「事務補佐」という身分なら自分でなんとかなる……。
もし希望されるんだったらということだけど、といいながら、Tはそのプランを□にしてみた。
Sは即、その話を受けた。
うれしかった。
コーディネーターたちの手助けに過ぎなくても、自身と同じ境遇にあるものたちのために働けることができる。
問題は、故郷の両親の説得だった。
もう二度と娘を手放したくないという気持は痛いほど伝わってきていた。
案の定、父からは反対されたが、最後にこういって説得した。
「問題の起きたときに一番安心できる場所に行くのですから心配はしないで」と。
Sが、移植情報室のスタッフとして働きはじめて二年が過ぎている。
これ以前、彼女と同じように、移植患者で、移植情報室で事務補佐の仕事にたずさわった女性がいる。
Eさんという。
はじめて姿を見だのは、Tの部屋であったと思う。
取材をはじめて間もない時期、部屋でインタビューをしていたおり、なにか届けものをするために入ってきた若い女性が彼女であった。
可愛い看護婦さん”というのが私の第一印象であった。
看護婦と誤認したのは彼女が白衣を引っ掛けていたからであろう。
病歴の痕跡はまったくない。
この一年ほど前に移植を受けて、移植情報室の仕事を手伝っていると耳にして驚く思いがしたものである。
Eが移植を受けるにいたるには、長い、困難な道程を経ている。
それは、国内での肝移植が遠いものであった時代、また成人間の臨床がはじまる前夜をくぐり抜けてきた患者にとって典型的な道であったかもしれない。
Eは一九七〇年、大阪・吹田市に生まれ、箕面市で大きくなっている。
胆道閉鎖症のため、生後まもなく大阪市内の病院で葛西式手術を受けた。
以降、高校に入るまで、これという自覚症状もなく学生生活を送っている。
高校二年生のとき、胆管炎による高熱を発し、入院生活を送る。
「Eちゃん実は……」と、はじめて幼児期の手術を母より聞かされた。
重い疾患をもって生まれ、なんとか命をとりとめた事実を耳にして驚いた。
母にすれば、なかなか口にできなかった事柄だったのだろう。
病をもつ幼い子と仕事を抱え、随分と苦労の多い母の日をはじめて知ったのもこのときであった。
以降、ほとんど絶え間ない手術と入院生活が続いていく。
大学に進学したものの、体調不良で通学は困難となった。
左葉は肝硬変に陥っていると診断された。
一九九〇年、K大病院で、胆汁を通りやすくする胆管吻合部の拡張手術を受けた。
二十歳のときで、これがTとの出会いであった。
期待を込めた手術であったが、容態は好転せず、翌年、左葉切除の手術を受けている。
これも当面の措置という域を出るものではなかった。
以降、比較的いい日は自宅療養、高熱と痛みが我慢ならないと入院、という繰り返しとなる。
調子のいい日でも、黄疸、全身のかゆみ、不眠、倦怠……肝臓の不調による症状から解放されることはなかった。

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